プルディリ (Ploudiry、ブルトン語:Plouziri)は、フランス、ブルターニュ地域圏、フィニステール県のコミューン。
歴史
プルディリは、かつて非常に重要な教区で、パンクラン、ロック=エギネール、ラ・ロッシュ(現在のラ・ロッシュ=モーリス)、ラ・マルティル、ポン・クリスト(現在のラ・ロッシュ=モーリス)といった小教区を抱えていた。現在はポン・クリストを除いた全部がコミューンとなっている。教区にはサン・ジュリアン・アン・ランデルノー(現在のランデルノー)すら含まれ、さらに昔にはル・トレウーとトレフレネヴェズが含まれていた。サン・ピエール教区教会は、ダウラ修道院に属する小修道院でもあった。ラ・ロッシュ=モーリス、ブレゼル、プルネヴェンテルに拠点をおいたロアン家の領主たちは、聖域内で領主が優先される権利(fr)を求めて争っていた。
1173年、教区の名はPloediriとして記されている。
名前の知られている最初の小修道院長兼教区司祭は15世紀のオリヴィエ・ド・メスゴーズである。1770年頃、プルディリとその小教区には約4700人の住民がおり、プルディリだけで1320人がいた。
ル・ニィ(Le Ny)家は、1436年から1534年の間、プルディリとトーレ、ル・ドレネック、ランドゥーザン、ギクラン、サン=テゴネックの監視と再編(fr)に参加した古い騎士の家系から出た一族である。この一族は、トレブリ、ペナンゲール、イル・イヴォン、プルディリといった場所の領主であった。
プルディリのジュロ
プルディリは、高レオン地方の、17世紀から18世紀の間非常に栄えた帆布産業の中心であった。ジャン・フランソワ・ブルミシュは1830年代にこう記している。『プルディリで帆布を商う農民(ジュロ、fr)は、6千、1万、または12,000フランの収入がある。』。プルディリのシャルロット・ベルトゥが1742年に死んだとき、20,256リーブルの遺産(その73%は帆布と糸)を残した。40箇所のkanndi(洗濯場)が現在のプルディリのコミューン域内で確認されており、これはプルネウール=メネズ、コマナ、シザンに次いで多い。織り機の数が密集しており(一軒の家に複数の織り機があった)、高レオン地方の帆布製造地域全体での平均55%から60%に対して高かった。
プルディリで最も有名なジュロは、アラン・プリケン(1736年-1807年)である。
1789年4月、レスネヴァンのセネシャルにあてて出された第三身分陳情書に、プルディリ教区の2名の代表、アラン・プリケンとオリヴィエ・レオンが署名した。
1802年5月9日、ギミリオーのケレオン集落で休憩を取ったあと、ジャン・フランソワ・ド・バル(fr)率いる7人のシュアンたちが、資産家で帆布商取引をしているアラン・プリケンを人質にとった。プリケンはド・バルに殺すと脅され、彼の子供たちに手紙を書かされ3万リーブルの身代金がド・バルに奪われた。人質が最終的に解放されたのは1802年の5月30日だった。
人口統計
参照元:1999年までEHESS、2000年以降INSEE
史跡
- サン・ピエール教区教会 - 1854年から1857年にかけ建築家ジョセフ・ビゴによって再建された。アプスなど、教会の古い部分を残している。
- 納骨堂 - 1635年にサン・ジョセフ礼拝堂に転換されたが、1731年に元の納骨堂に戻された。
脚注




